Schwimmen

スイミング、スイミング。

マーク・マンダース展にて

マークマンダース展について


先日、(といってもひと月以上前)東京都現代美術館にて行われている「マーク・マンダースの不在」展に行ってきた。


21世紀金沢美術館で行われた、マーク・マンダースとミヒャエル・ボレマンスによる「ダブル・サイレンス」展でもマンダースの作品は見ていた。今回の展示で改めてマンダースの作品をじっくりと鑑賞することで、マンダースに対する見方がより深まったように思うので、つらつらと書いてみる。


エスカレーターを上り切って、木のモチーフに挟まれた首像が目に入った。ダブルサイレンスの際には、彩色されたブロンズであるということを意識せず見ていたため、その像の象徴的な意味やイメージを読み込もうとしていた。しかし、「彩色されたブロンズ」ということを意識すると、リアルな粘土や木材の物質感の「演出」の見事さに思わず感心した。そして、緊張感のあるイメージが「演出」のリアリティを増長しているように感じた。


続く展示室では、猫が腹部で切断され横たえた作品が置かれている。そのイメージに一瞬ドキッとする一方で、「彩色され」その上、毛皮が被せられている事実が頭に残る。ドキッとした反面、それらは「作られた」像であり、「ドキッ」とするようなリアリティを仕組まれ、演出されているのだ。なんだか、マンダースの手のひらで転がされているような感じがずっとある。


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第3展示室では、少女が机に向かって足を伸ばし、机とのテンションを感じさせる光景が目に入る。

その背後にある「短く悲しい物語」の針金が、あたかも紐のようにだらりとぶら下がっている光景と響きあう。机から遠のく少女と、大きく突き出した木材、机とのテンションが視覚化されている一方で、少女の肩に挟み込まれている木材や、並べられた3脚の椅子によって、不在の物語を想起させる。その上、一脚の椅子は少し内側に入れるために、机の下面がくり抜かれている。ここまでして、椅子を少し中に入れようとするマンダースの狙いは何か?という問いが浮かぶ。そして、これらの光景は実際の紐でのテンションではなく、ブロンズによる「演出」されたテンションであるという事実が頭にとどまる。


そして、ビニールが張り巡らされた展示「空間」へと導かれる。さわさわと音を立ててなびくビニールも周到に演出されているのではないかと思わせるものだった。同じ「空間」内にいないが、ビニールの「空間」内にいる他の鑑賞者が歩くことで生まれる微かな振動が伝って、ビニールが靡く。視界に映らない他者の存在を音によって知覚させていることに気がついた時に、偶然だとしても、「不在」感を増幅させている。誰もいないが、誰かの気配を感じ取っているという点で。


さて、順路を進めて《4つの顔》や《一つの顔》の彩色されたブロンズの精巧さや、緊張感あるイメージもさることながら、周囲に砂がまかれておりテラコッタと見せかけようとする周到な演出に驚いた。彩色されている事実を包み隠し、あくまでも、粘土のテラコッタによる像として見せているのだ。この周到な「演出」に本展の「不在」の狙いがあるのかもしれない。




続いて、個人的に好きなマッチ棒の作品。かわいい。


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改めてみると、麻の胴体部分だけでなく、マッチ棒、たらされている紐がブロンズで彩色されており、なおかつ、マッチ棒の影までもが描かれている。


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徹底して演出する姿勢に驚くとともに、光源によってできる影すらも不在の演出になる。


そして、このマッチ箱での様子がこの展示の状況を明確に提示している。精巧にできたフェイクの物体と、それにまつわる現象。

しなる板のテンション、柔らかく重力に従う針金など、周到に「演出」されている状況をひそかに覗かせる。


展示室に続く通路(のように設られた空間)では、マンダースのドローイングが並ぶ。鉛筆で描かれた一枚一枚に近づいて見ると、それらは全てコピーされた者であるということに気がつく。またしても、オリジナルに限りなく近い「複製」が提示されている。


最後の展示室では、建築の図面を思わせる使い古された鉛筆やカセットテープの配置の作品など、配置の要素が強かった。


まだまだマンダース展の見どころはあるが、ここらで私が感じたマンダースの作品に通底する「不在」感をば。

金沢では、「サイレンス」として、物言わぬマンダースの姿が捉えられていたが、都現美では「不在」として捉えられていた。

マンダースは偽物のリアリティを持った、精巧な「もぬけの殻」の演劇を作り出す。その点で、演劇的空間の展示室がマンダースにとっての自画像となるのは、「今ここ」にはいない(=不在)ので、あらゆるどこかの場所にいる、という、はぐらかしたがりの性格。


リアリティを感じさせる表現の数々は周到に演出された、屈折したリアリティであり、ありのままの姿ではない。限りなく本物に近い、パラレルな虚像の空間で「不在」感をひしひしと味わい、見えない実在に思いを馳せることにマンダースの面白みがあると思った。

けれど、ずっと虚構スペクタクル